人間味の無さ くうかんあじ

 人間の「間」っていうのは、空間の意味を持つものだと僕は思っている。漢文の参考書にもそんなの書いてあったしね。今使ってる意味とは違う単語の意味としてだったけど。

 

 その定義に則って、「人」と「人間」の違いっていうものを考えると、自分の空間を創り出す事の出来る存在が人間って事になるんじゃないのかなと思う。

 それと、単体では「人」な存在も、複数人で同じ話題を共有した時は、そこに空間が出来るので、これも人間だってことになる。僕の中では。これは漢文での「人間」の意味に近い、世界としての空間というか、そんな感じ。

 

 他人や誰かの作品の話題でしか空間を作れない人達が居たり、自分の世界を構築して、それに他人を巻き込んだり、混ざったりとか。お互いの空間の座標を調整して、共有する領域を増やしていくって事が、分かり合うって事なんじゃないか。

 

 今はもう発達障害だったってことになってるけど、実際自分って他人の空間に対しての配慮や耐性が全くないっぽいなと思った。

 クラス替えしたすぐ後とか、引っ越した直ぐ後とか、何かの集まりの第一回目とかの、自分も相手も一人ひとりがだいたい独立している(少なくとも僕はそう思っている時点の)状態から、友達というか、なんとなく纏まってそういう空間を共有できるグループを作るのはすごく得意だった…気がする。自分と一次で繋がる関係だから。

 

 でも、「友達の友達」と仲良くなったりとか、「友達がいつも遊んでいる人たち」の空間の中に混じっていくのは本当に苦手で、そういう経歴で仲良くなった覚えがあんまりない気がするんですよね。twitterとかでも同じ感じになってる気がする。なんだろう…二次以上の関係を処理できないのかもしれない。面白い人たくさんいて直接話したりしたいんだけどどうやって仲良くなればいいのかわからない。

 

 自分と違う世界を持つ人間の世界を少しでも理解することは相当に難しい。本当にそうなのかは僕にはわからないけど、僕は無意識にそれをやれるような自我を持っていないって事は確かだ。

 

 あーやっぱあれ人間味ない行動だったよなー、って思い出すことはたくさんあるけれど、それを自覚した所で過去をどうにかできる筈もなし、この先そういう場面に出逢っても上手くやることはできない。

 

 皆いったいどうやってこういうどうしようもなさから抜け出しているんだろうか。

 

 

 

いや、一番幸せなのは、そもそも気付かない人たちなんだろうけど。 

言語定義を思案し過ぎるのは良くないのかもしれない。

記号は記号のまま使えた方が楽だからだ、